原宿界隈に、こだわり本ばかり置いているちいさな本屋さんがある。宣伝といえば、プリンタで出力したDMもどきを、近所の郵便うけに投げ込むだけ。いつ行っても、お客はじぶん一人なことがありがたいっちゃありがたいけど、つぶれたら悲しいわ、とお節介にもいつも大量に買い込んでしまう。
そのなかの一冊に、『写真補正・加工逆引きデザイン事典』があった。フォトショップの教則本にしてはありえなかろう、ふんだんな情緒。「ボロボロになるほど引かれたい」という帯でレジにいざなわれた、その本の著者のひとりに「上原ゼンジ」というお名前があった。
元『本の雑誌』の編集者。「無頼」の魅力にとりつかれ、フリーとなる。写真家として、身近の魔境を手づくりトイカメラでひきよせ、異世界をつくりあげる。
著書に『うずらの惑星』『カメラプラス』(雷鳥社)『キッチュレンズ工房』(毎日コミュニケーションズ)。
ぶきみかわいい。理性と感情の五分の勝負。現実・虚構の表裏一体。
編集者と写真家の視線が交錯する。表現者とはみずからのプロデューサでもなければならぬ…煮詰めれば自分のことしか考えていないのが人の常(ほんとは、そんなことないんだけどね)…こんな非情の掟も、エディタとクリエイタを両立させる希有な能力があれば、たやすく乗り越えられるだろうに。ひたすら好きなこと、面白いことを、追い求めながら生存している不思議世界の住人らしいと知る。
上原さんは、かのフォト・セッション86のメンバーでもあった。
(注:フォト・セッション86=『写真時代』(白夜書房)の「森山大道と街を歩く」という企画が発端となり、集まった10名ほどのメンバーにより結成された。暗室をそなえていた中野坂上の拠点は「アジト」と呼ばれた)
当時の、ボールドヘアで頭部を揺り動かしスローシャッターでとらえたセルフポートレートは、目の前のおだやかなたたずまいとは容易につながらない。
でも、きっとこのボーダーレスこそが上原ゼンジさんなのだ。
そんなこんなで、ご縁が生まれ、上原ゼンジさんの展覧会「fantasticrearism夢遊する現実」を企画することになったのでした。

(08/10/28 本尾緋沙子)



その昔、展覧会の担当者がいちばん忙しいのは、秋といわれてました。
ゲージュツの秋…?
パルコギャラリーの頃は、日本で開かれる大きめの写真展は数えるほどだった。
今では、ゼロが二つ以上もふえて高くて手も足もでないオリジナルプリントが、その頃は婚約指輪なみ(お給料の3ヶ月分といわれていた…)だった。見ることさえ難しくなった、歴史に残る作品の数多くが、誰かの手元でじっとさらなる値上がりを待たれているか、美術館のコレクションとして厳重に保管されていることだろう。
ニューヨークで火がついてヨーロッパに波及した相場の落下が、今後、日本の作品にどのように影響するのか、多くの人が状況を観察している。中国では、ここ数年の美術バブルが急速におちついて、さっそくの買い控えがはじまったと聞くが、日本の場合は、それなりの経験と学習にのっとった流れにそって、積み上がり蓄積されての現在があるわけなので、そんなにヤワとは思えない。期待以上にしぶといのではないか、と思っている。日本の写真家には、逆境をしのぐ実力がある。
いま、じぶんは、12月に向けての展覧会と写真集に奔走しながら、2009年の卵を高熱であたためている。ゆであがらないように。あっというまに、来年のダイアリーを買う時節ですから。
ストライクゾーンど真ん中に、ストライクゾーンと同じサイズのボールを投げます(アレって四角かったんじゃ…)。
そりゃぁ、世をすねたり、消えたくなったり…あるでしょう、交通事故やら留置所やら、半端しらずが偉そうに。はい、ごめんなさい。でも、たとえ、つっぱしって転んでも最悪生命燃え尽きたとしても、それが面白いことであれば、きっと中継してタッチダウンしてくれる、やさしくて優秀な人が、まわりにいっぱいいる。だから、ハードルをあげていきます。助けてね、皆さん。
他力を信じつつ、自力で走りつつ。

(08/10/27 本尾緋沙子)




©Masataka NAKANO

中野正貴さんの展覧会が日曜日に終了しました。
中野さんとの打ち合わせは、毎回とっても楽しかった…。あの頃と全然変わっていなくて、ワイルドで繊細。ときおり、言葉のはしばしに、大竹(伸朗)さんそっくりの節回しが混じり、おかしくて笑いころげてしまうこともあった。
大竹さんがコンピュータに向かって「マウスケープ」の作品づくりに集中し、ほか弁やコンビニのおニギリを毎日皆で食していた6年前ののべ半年間。このときも、中野さんに、大竹さんの作品を撮影していただいた。さらにさかのぼること何年も前、大竹さん、中野さん、藤井ユカさん、ラッセル(・ミルズ)、デイヴィッド(・シルヴィアン)、ヴォーン(・オリヴァー)たちとすごした、きわめてロンドンな日々…。
懐かしいという言葉がまったく似合わない、なぜかちっとも古びない、いろいろなできごとが思い出される。折も折、久々にユカさんが連絡をくださって、お茶。素敵なニュースを運んできてくれたりもした。
中野さんが会場につくりあげた「リトル・トーキョー」は、空間に裂かれた視線のスリットが、身辺のあちらこちらに存在していることを見せつけつつ、東京の秩序なき変異とふところの深さを教えてくれた。それらのスリットは、刻々と場所を変え、移動し変容する。同じ場所には二度とたちあらわれない。
「今じゃもう、『TOKYO NOBODY』は撮れなかったかもしれないな…やっておいてよかったよ」と、中野さん。
作品の前で携帯で自分の写真を撮ったら、街なかにいるような不思議な合成写真ができるね、といって、皆で遊んだ。

ご紹介するのは、リトル・トーキョーを通過する人々を、撮りおろした、中野さんの新作。
短辺150センチ幅の巨大なペーパーにプリントされた約30作品は、倉庫に大切に保管されて、静かに次なる目覚めを待ちます。

(08/10/20 本尾緋沙子)



シークレット・トークとDNA

藤原新也さん久々のトークイベントが、フォトショップの達人・桐生彩希さんとデジタルの技術者と、若いクリエイターたちに囲まれて行われた。
「今の20〜30代の人たちは、時代の煽りをいちばん受けている年頃なんだね。デジタルが世の中に蔓延しているからこそ、敢えて、アナログに走ろうとする。思い切って、デジタルをとことん受け入れてみたら、新しい視座が視えてくることもあるんじゃないのかな」
そのあとの食事会で、技術者の方から面白い話が聞けた。
DNAを構成する四つの塩基は一定で、個体差はその組み合わせやねじれからつくられる。
人体のほとんどの要素のタンパク質(こちらはアナログそのもの)の設計図であるDNAのありようが、デジタル発明の基になった…。
つまり、設計図的には、だれでも、マリリン・モンローやジェームズ・ディーンになれるってこと。

デジカメの光センサーであるCCDやシーモスは、よくフィルムにたとえられるけど、二つのセンサーが光を測量して画像を合成するのに対して、フィルムはみずから光に感応して像をつくる。だから、ニエプスやダゲレオが発明し我々が「写真」と呼んでいるものとは、構造的に、違う。
デジタルのおかげで得られたことは実に多いが、うしなわれたものもある。携帯電話は時間を節約してくれるけど、ふれあいのコミュニケーションを希薄にし、インターネットはちいさな世論にパワーを与えたが、個人の暗部を希薄にしていった。

いまだから、デジタルにどっぷり飛びこんで、デジタルについてもっと考えたり、いろいろ聞いたり議論したり、そういうことが大事なんじゃないかな。いつの日か、デジタルだアナログだという意識すらなくなった未来の人たちも、こんなカオスのときがあったことを、すこしは思い出してくれるかもしれないから。

(08/08/02 本尾緋沙子)



残りものが好きなわけ

何年も前に観た、アメリカ映画のカー・チェイス・シーンでかかった曲が頭にこびりついて離れなくなった。サウンドトラックにもなくて、すっかりあきらめていたら、ほんの三日前、FMラジオからその曲が流れてきて、タイトルまでつきとめた。
War「Low Rider」1975年のアルバム。
待ち時間の分、かけっぱなしの三日間。

「寿命が延びて年寄りでいる時間が永くなったのだから、赤ん坊でいる時間をもうちょっと永くしてもいい」。
年をとった人が、年をとるということはどういうことなのか、もっと、若い人にリアルに伝えてあげられるといいのに、と思う。肉体が衰えても欲望は宿るし、悟るときなんてこないと思う。
体力が気持ちについていかない分、熱はとろ火になって、過ぎ去った時代のことや待つことの意味もすこしはわかるようになるかもしれない。
そうしたら、もっと「今」を大切に思うようになって、もてあました妄想のはけ口を、無差別に包丁をふりかざすような犯罪に見いだす若者の矛先が、すこしは、違うほうに向くかもしれない。

(08/08/01 本尾緋沙子)



心ときめくもの、ウォーホル。

70年代に撮影された、森山さんの、スーパーに高く積まれている缶の写真は、森山さんいわく「ウォホールのトレース」。荒木さんの「ぺっちゃんコーラ」シリーズは、荒木さんいわく「ウォーホルへのオマージュ」。
ニューヨークのファクトリーで生み出された大量の作品は、いまや、天井知らずの高騰。発した言葉やいきざまは、現代に、おそろしいほどぴたりと符合する。「未来に生きたかった」ポップアート界最大のアイドルは、永遠のアイコンとなって、いまも未来を跳びつづける。
「物質エネルギーの消散」「空想」「科学物質」「無」「TVとテープレコーダー」「だから、どうなの」…ウォーホルをカリスマ化した人生術の小道具たち。実際には、どういう言葉を使っていたのだろう。

「ほんとにファンだったから会わなかったんだよね」。
森山さんは、71年にNYでファクトリーを訪れるチャンスを敢えてふいにした。

(08/07/29 本尾緋沙子)



心ときめくもの、赤。四つのA。

自分で初めてあつらえてみようと決めて飛び込んで一式そろえた呉服屋さんのすばらしい接客の思い出が、幸田文『きもの』を読みかえして噴き出し、溝口健二の木暮実千代を観て、とまらなくなった。
若い頃の母が袖を通すことのなかった、白地にちいさな赤の花びらが散らされている江戸小紋のしつけ糸を抜き、何度もはおるうちに、なんとか着付けの原理もわかってきた。細い帯が結べるようになって、浴衣の楽しみも知った。
ずいぶん前のことになるが、資生堂ギャラリーで開かれた展覧会で、深紅に染められた反物を観たことがあった。限定だったから二度と手に入ることはないだろうし簡単に買えるような値段でもなかったのだけれど、ほんとに綺麗な赤だった。
縁のなかったきものーーどんな人に着られているのだろう、大事にされているだろうか、と想像するのもまた乙なこと。
いつかどこかでまた会えるだろうか。

(08/07/26 本尾緋沙子)



要塞のように堅固である。わたしの事務所。すべてが直線で構成されていて、冷たい印象だが、実はいろんな意味であたたかい。お隣は日本の旧家風の平屋なので六本木方向の夜景がちらりと見える。見えるのが新宿だったらいいのになぁとほんとは思うけど、もしそうだったら、毎晩ネオンの灯によばれて蛾のように飛び出してしまうだろうから、これでいいのだ。
それでも、我慢できないときのために、新宿の区役所通りから歌舞伎町をなめている写真をかざることにした。写真家・佐藤信太郎さんの個展「Tokyo Twilight Zone −非常階段東京−」(PGI)で見初めたのである。
佐藤さんは、求める風景を俯瞰するのに都合のよい高さをもち、三脚をおける踊り場のある非常階段を、東京中ロケハンしさがしだしては、管理人さんにいぶかしがられながら、撮影しているという。街はすみずみまでスポットで照らされたかのようなハレの表情を浮かべ、丹念に濾過された猥雑感がいぶりだされ色めきたっている。すがすがしく高潔、かつ、ものすごく人間くさい。
ある程度の時間シャッターを開いていないとこうはならないだろうと思われる明るさに満たされているが、かといって、4x5のフィルムでもあることだし、ちょっとでもそれが永過ぎると東京の東京たる匂いはすっかり飛び去ってしまうだろう。気に入るまで何度でも撮り直しに通う、と聞いて、やっぱりなぁと思う。

というわけで。
もうすぐ、佐藤さんに素敵におめかししてもらった歌舞伎町が、事務所にやってきます。

(08/06/20 本尾緋沙子)



このところ、イエローとかグリーンを着ることが多い。
色との関係は、こと服においては、オンナはオトコよりフレキシブルである。もやしっ子時代の青白い肌。紅茶色に灼けた肌。恋をして上気しているとき。寝不足がたたり沈んでいるとき。服の色はレフ板の役目を果たしてくれる。まったくオンナという生き物は?…虚飾と誤解するのはたやすいが、ファッションに向ける情熱は自分に向けるリサーチの深度と比例するのである。ちなみに私の車はどこにでもある白だし、かりに家を建てられることになっても外壁をエメラルドグリーンには塗らないような気がする。

写真家にとって美しい被写体の条件とは、と尋ねられ、荒木さんは「肌だね」。即答なさっていた。

十代の頃、フィルムを持ち込んでは現像してもらっていた近所の写真屋さんに頼まれて、ポートレートを撮られることになった。写真屋さんは、写真家志望だったので、お見合い用じゃない撮影をしたがったのである。想像してください、まだ高校生ですよ、それなのにそれなのに。できあがったモノクロームの四つ切りに大きく引き伸ばされた肌には、憂愁の陰影が…。
母が「やっぱりあなたはお父さん似なのよ」と笑った。孤高にも不条理を投げやりにしない父。若いときからその額には深い皺が何本も走っていた。そして、少女がその頃闘っていた最大の不条理とは、ラッシュアワー時に出没する顔のない痴漢だった…(笑うこと勿れ、トラウマになりかねない大問題だったのである)。

ストロボをぱしっとたいたりデジタルでレタッチしたり高級な化粧品をつかったりすれば、肌理(きめ)はあでやかに創作できるだろうが、皺があろうと毛穴があろうとなにがあろうと、そういうことではなさそうである。肌の美しい人はきっと人生も美しい。心に愛を育ててきた人の肌ははれやかで、苦悩から逃げず精一杯生きてきた人の肌は凛々しい。

荒木さんのインタビューは続いている。
「写真は現実も過去も未来も人生全部を写しとっちゃうからね」。

思春期の彼女は、カメラの洞察力により、自らに潜む性(さが)を映す禁断の鏡をのぞかされてしまった。自分の写った写真を見るときに、身体のどこかがちょっぴりこわばる感覚は、それから何年もたった今でも抜けない。

(08/06/14 本尾緋沙子)



タイから帰ってきたばかりの都築響一さんが誘ってくれて、武道館のすぐそば、科学技術館に行ってみた。第50回全国矯正展という催しである。
都築さんは、アスペクトから、『刑務所良品』というご本を出版したばかり。なんと!このご本には、全国各地の刑務所の刑務作業からうみだされる製品のなかからのよりすぐりもの280点が紹介されている。そして、この矯正展は、それらをはじめとする製品を一堂にあつめて販売する企画で、販売しておられるのは刑務所の職員の方々。
館内には、たくさんのブースが並び、家具や靴やエプロンや碁盤や味噌やパンや漆のビアグラスや巾着袋などが、所せましと売られている。
ラフに陳列された製品には、どれひとつも、視られることや褒められることを欲している気配がない。ただただ、つくる。ひたすらつくる、ちゃんとつくるという、どこか郷愁にも似た原則中の原則に背中を押され、夢中でぐるぐると回るうちに、気づくと、両手にもちきれないほどの買い物をしてしまう。途方に暮れていたら、盛岡刑務所の方が、桐の小タンスと踏み台を持って駐車場まで送ってくださったので、ほんとうにほっとした。
会場は、老若男女さまざまな人々でごった返していて、毎年ここに来るのを楽しみにしている方たちがたくさんいらっしゃるんですよ、という、その方のことばをうらづける。前日には、氷川きよしサンが来館したので、より以上の混雑だったのだとか。
天気は快晴、武道館からはJAPANそっくりの声のバンドのリハーサルが響きわたり、新緑の散歩道をおびただしいカラスが猛々しい瞳で低空飛行。久々に「ここはどこ?私はだれ?」感を味わったあと、がら空きの高速をひとっぱしり、新宿へ。秋に展覧会をご一緒することになった、芸大生の村山加奈恵さんと打ち合せ。
おすすめの赤ワインと新鮮なアスパラガスを買い、どこまでもいつまでも知らないことだらけ、驚きいっぱいの世の中に、ささやかな祝杯。

(08/06/10 本尾緋沙子)



6月10日から、エプサイト(東京・新宿三井ビル)で細江英公人間写真展「春本・浮世絵うつし/きもの/鎌鼬 屏風・掛軸・写真絵巻」がスタートするので、準備で忙しい日々を送っている。写真の軸となるのは、細江さんと永く熱い親交をつづけた土方巽さん。
いわずとしれた暗黒舞踏の創始者である。BUTOHを世界に知らしめた功績はあまりにも大きく、その活動を二度とオンステージで見られないことの無念さは、亡くなられてからの時間が経過すればするほど大きくなっていくように思う。
細江さんの写真のなかで、奔放に飛び、走り、恐ろしくもかわいらしくも豊かな表情を浮かべる土方さんは実にチャーミングで、どれだけ人間として艶やかさをもった素顔の魅力的な人だったのだろうと想像してしまう。
細江さんと初めてお仕事をしたきっかけは、土方巽さんを巡る写真とアートによる展覧会を企画したときだった。このときに、あれこれと面倒をみていただき、作品をお借りするために中西夏之さんや四谷シモンさんをご紹介いただき、大野一雄さんや土方さんの教えを伝える若い舞踏家の方々に畳をしきこんだ会場で踊っていただけるようはからってくださった。あなたはほんとうに恵まれているのよと、元藤Y子さんに何度も言われた。アスベスト館を守るために必死の努力をされていた元藤さんとも、もうこの世でお目にかかることはないが、そのときの優しい真剣なお顔は胸にやきついている。
二つのディケードを通り過ぎてふたたび、細江さんと土方さんの写真による展覧会をご一緒しているというめぐりあわせには、言い知れぬ思いがある。
細江さんはときどき、VIVOの末期に上京しそのまま細江さんのアシスタントとなった森山さんの若き日のことを話してくださることがある。森山さんに話したら「う〜ん、そんなこともあったかな」とにやり。森山さんとの先日の大阪でのトークでは触れなかったけれど、夏にもういちどトークがあるので、流れによってはすこしだけ聞いてみようかなと思ったりする。現実に足をつけた空中に散乱しない言葉はどんなときも聴いてくださる人たちの芯にまで届く。
5月25日。荒木さんのお誕生日のお祝いが盛大に行われた。しきってくださったのはタカイシイギャラリーの方々。友人たちと会えて楽しい時間を持つことができた。人がかすがいとなって出会いがふくよかに薫っていく。
恵まれているとは決して思えないようなことも多々あるけれど、こちらからの一方通行の感謝の量にだけは恵まれているような気がする。いただいた気持ちは授けたもの(そういうものがあったとすれば)より以上にきっと強靭なのだろう。

(08/05/26 本尾緋沙子)



探していないものばっかり見つかる。また時間くんがお茶目をしているなと素知らぬふりをしていると、探しものがおのずと現れる。
やさしいところもある。交通事故の傷あと。鏡を見ても見なかったふりを決めこんでいたら、いつのまにか、肌となじんでいる、時間くんのしわざだ。
「ありがとう」と思う。

朝の光と風の心地よさがたとえようなく、打ち合わせが一本もない日、行き先を決めないで旅にでかけたくなった。ヨークシャーテリアのPちゃんに「行かない?」と誘う。そこらの散歩と勘違いしたPちゃんの快諾を得て、助手席に乗ってもらい、なんとなく高速へ。どこのインターで降りようかなぁ、時間くんの同意が得られるまで目的も考えず走りつづける。最初ははしゃいでいたPちゃんがいつしか、シートでしっぽをまるめてうずくまり、ふてくされている。横目でじろり「僕をどうするつもり?」。Pちゃんと時間くんと私の三角関係。

以前見たとある町の写真。でっかい豚の姿に目を奪われみのがしていた背景にちいさなちいさな肉屋の看板をみつけた。「豚バラ大割引」。写真の偶然はいつも必然。
それに気づくだけのなにかが私の身に起きたというだけのこと。写真と時間くんの共謀関係。

哀しいことやわからないことは、時間くんにお預けすると洗濯してクリアにしてから戻してくれる。半乾きのときは返品もできる。時間くんのメモリはNASAのサーバーよりはるかに太っ腹で機能的だ。
思えば、Pちゃんの正直さも時間くんの能力も写真そのものも、不偏不滅である。うろちょろしているのは、いつでも人間(私)のほうである。

(08/04/28 本尾緋沙子)



「貴女って、いったいどういう人なの?」
数年にわたる友人から、なにげなく尋ねられて絶句。つまり、この人は、私が世間でいう何者(看護士とか写真家とか)なのかを確認したかったらしいのだ。
しばらくの間この質問にたちむかおうとして、写真の仕事について、言葉を並べてみたのがここ数回のコラム。

この人はリアルにこう聞きたかったのかもしれない。「生活の糧はどうしてるの?」
ネット上に書き込まれていくその日その時の、ぐんぐん人口に近づいていく数の出来事は、自分を客対視できる能力をそだてるであろう一方で、「恥じらい」の境界を凌駕していくように感じる。
でも、どんなに"私"を晒すことに長けたとしても、家計簿をブログで公開する人はいないだろう(と思う)。
秘密の蜜はこのうえなく甘い。ちいさな幸せやちいさな不幸や、たいせつな人と過ごすささやかな時間のことは、周囲の色と空気をさまざまに塗りかえる密室の宝物。
そんな赤裸々とてもとても。
(ブログの発展形のありかたについては、いろいろ考えていて、近いうちにアイセンシアに導入しようと思っています)

あるいは、こういいたかったのか。「貴女の仕事のことを教えて」
私の理想とは、素敵だなぁと思う「表現者」の仕事を、世界と交合させ、最高の魅惑としてたちのぼらせること。
ところが、これを支えるのは、あらゆる種類の作業である。キュレータと言ってしまえばそれまでかもしれないが、デザイナーでもありプロデューサーでもあり編集者でもあり執筆者でもあり観察者でもありドライバーでもあり掃除人でもあり思想家でもあり詩人でもありプログラマーでもあり映像制作者でもありチィママでもあり、ときには、巫女でもなければならない。
自分に向かって問いつめたくなってきた。「私って、いったい誰?」

冒頭の質問がずっと頭のどこかにひっかかっていた私は、しばらく経って、友人にメールを打った。
「私は私よ、誰でもないかもしれないしドジも踏むけど、私でいることが案外好きかも」。答えになってない。
拍子抜けしたのは、相手が自分の発した質問など、すっかり忘れていたことでした。

(08/04/15 本尾緋沙子)



死にかけたことが2度ほどある。あくまでも物理的な意味でだが。つまり、一度は病、二度めは事故なのである。いや、事故といえば思い出すと赤面するような小さなものは日常きりなくあるのだが、あのときは死を覚悟するまもなかった、夜中千駄ヶ谷の事務所近くでオートバイに飛ばされたときには。数メートル宙を舞ってアスファルトに着地した直後私は、真っ暗な闇の中で一瞬ぼんやりと意識を取り戻し、そして眼前にほのかに浮かんでいるどこまでも円い女性の顔があったことをおぼろげに記憶に畳み込み、すうっと闇に戻っていったのだった。ほんのわずかな時間のできごとである。にも関わらず、傷の痛みは忘れられてもその像だけは忘れられないでいるのである。シャッターによって世界から切り取られた瞬間から写真家との永い添い寝を経て(私は現像されないままときに長期にわたりフィルムが寝かされている状態がひきおこしているであろう、精神と像との生成する化学変化を想像するのが好きである。暗室で液体の中に像がじわりと浮かびあがってくるときの写真家の興奮を思い浮かべることもまた相当に好きである)写真は印画紙に定着され、永遠に未完のまま世間に放たれる。いともたやすく言葉を超え時間と状況の混沌のなかに浮遊するその感覚は、どうもあの顔との出会いのありように似ているような気がしてしかたがない。
あるスチュワーデスの方が飛行機の故障であわや死を覚悟した際、目の前にすっとたちのぼった光景が藤原新也さんの一枚の写真だったという話を藤原さんの著書で読んだことがある(藤原さんはそのことをご本人からの手紙で知ったのである)。イメージとはことほどさように、記憶の隙間からするりと入りこみ強烈に無意識に刻み込まれる能力を隠し持っている。
目鼻も漆黒に包まれ輪郭のみが歴然とあった、そして瀕死の私を哀れむでもなく癒すでもなくただ淡々と見つめていたあの顔は、おそらくはどなたか路上に倒れていた私の身体を安全な場所に運び救急車を呼んでくれた奇特な方のひとりと想像するのが妥当ではあるだろうが、当時の自身の状態をおもえば「無」そのものでしかなく、でありながら、どこかに既視感がともない、その視線に包まれているかぎり何者にもおかされることはないという確信にあふれていた。
爾来、私は、網膜に織り込まれた奇妙な残像を誰かのモノクロームの写真に重ねあわせられるのではないかと探しつづけている。
写真を見ることは眼球の愉楽であるなどと偉そうに悦にいっている場合ではないのだ、私にとっては。彼岸への道行きをともにするかもしれないただ一葉の像なのである(願わくは涅槃に導かれんことを)。真剣にならずにいられようものか。

(07/08/02 本尾緋沙子)



最近、清水穣さんの評論を読んでまた読み返して、を繰り返している。秀逸である、なにをもって秀逸と思うかというと、理由はいくつもあるが、とにかくインスピレーションの示唆が散乱しており、一行ひとことも読みすごせないのである。イメージがこれほど明確にマトリクス化され、心象がこれほど論理的に解析され、なおかつみずみずしさを失わずにいることは、非常に稀ではないか。こういう出会いには、ひたすら感謝である。
前回、「欲望」について触れた。世界中のキュレータやエディタたちを、その欲望のありようによるそれぞれの立ち位置でマトリクス化することは可能ではないだろうか、などとふと考えてみたりしているのも、この本『白と黒と』(現代思潮新社)の影響かもしれない。
その中に収録された『森山大道論』に引用されているプルーストのテキストの中に気になる文言を見つけた。「写真の展覧会のように退屈」。前後なくこの部分だけを切り取ることは危ないと承知している、お願いだから、ぜひ、全文を呼んでいただけないでしょうか、といいたくなるのだが、実際ここで目眩を起こしてしまったのである(私はなぜかよく転倒しがちでしかも地面を頭で受け止める。直後のクラクラはこの感じにどこか似ている)。写真という、エロティックで謎めいた細胞を宿す生命体に、なんらかの形式を介入させることの困難を、この文言はきわめて端的に示唆している。
同じイメージなのに、昨日と今日の印象がまったく違って映った、という経験はありませんか。われわれの時間の推移にこめられた変容がそうさせてしまうのだ。
写真家自体も当然日々変わりつづけている。写真が無限に魅力を提示しつづけるのは、写真家と写真を受けとめようとする人々の揺らぎつづける個人史のためであり、肌をそよぐ時代の風の気まぐれのせいである。変化に変化を二乗三乗させるとどういうことになるのか。またもや目眩。
写真展の魅力は、しなやかにみずみずしく常に流動しながら拡がりつづける素敵なブラックホールに巻き込まれていくわくわく感を、会場を訪れた方々と共有できたときに開花する。心中に得体の知れぬ小爆発がひきおこされる体験、それ以上にフレッシュな収穫はこの世にそうそうあるものではないように思うのである。

(07/07/25 本尾緋沙子)



すべてにあてはまるわけではない。ないが、ふつうは量は質を駆逐する。市場競争に打ち勝とうと思えば、いまの世では、商品の部品の質をすこしずつ落としていってコストを削るか、人件費を削るしかない、となる。人が疲弊すれば、やはり質は減ずるだろう。
過剰な労働もふつうは仕事の質を凌駕する。いかに体力屈強・気力満々の某栄養ドリンクみたいな人でも、知らず知らずに無理がよどみ、どこかになにかしらの瑕疵が生じてくる、はずだ。だいたいからして、四六時中の心の緊張は脳細胞に気の毒だ、あたらしいアイディアは知識と記憶の多様なかけらの柔軟な醸造作用による賜物ではないかと思うから。
並列していいかどうかわからないけれど、キュレータの仕事にとって、経験はほかの職業とおなじように宝物だし踏んだ場数は血肉となってたび重なる判断を助けるが、数をこなせば必ずしもすぐれたキュレータが生まれるとは限らない、と、キュレータである私は勝手に考えている。じゃあ、なんなのよ?と自分に問うている。あればありがたい「才能」と「運」か。でも、そんなものが自分に備わっていると自負する人間はどうにも鼻持ちならなくないか。「努力」私は時代に反して、この言葉が大好き、でも残念ながら、それだけでもまだたりないような気がする。いまの答えは、こうだ。
正確には2007年夏真っ盛り時点での私の答え。「欲望」。こういう展覧会をやりたいという明瞭なイメージと空論を現実と結びつけようとする強靭かつ強引な精神力は、どうもそこから生まれてくるような気がするのである。
おのずともたらされたはずの三大本能くわえて闘争本能も脆弱であり、そんな自分をふふんと小馬鹿にするような傍観者気質が、展覧会欲望に采配されたときには、全身が摩擦ですりきれることも恐れず壮絶なスピードで回転しつづけるタイヤのように熱くなる。自身を賭して作品に挑むアーティストに出会える幸福のサイズは、外聞がなりふりがたとえへったくれになってもあまりある。
さて、冒頭に量と質のことを書いたが、それぞれが相反しない、過酷で幸福な例外がいる。写真家である。世に出すひとにぎりの作品の向こうには撮影し対峙し形にしてきた膨大な写真が山のように積み上がっているはずだ。それらは決して亡骸にはならず、胎盤のごとく写真家を包み込み滋養を流し込む。
写真を見ること、それは、見なかった写真を見ることでもある。

(07/07/18 本尾緋沙子)



過日、北海道新聞の方からお電話をいただいた。近々新しいサイトを立ち上げるにあたり、アイセンシアにリンクしてもよいでしょうか…とおっしゃる。どんなサイ トなのですか?とお尋ねすると、団塊の世代の方たちに向けたものとのお答え。どうして団塊 の世代?という気持ちとそうなのかぁという気持ちがいりまじりつつ、その場でどうぞと即決してしまった。
私がサラリーマン時代それも駆け出しだった頃、団塊の世代の上司たちは光り輝いていた、すくなくともそう見えた。現実をこよなく謳歌し怖いものなど露ほどもなきがごとしの獰猛なバイタリティを体中から発散し、当時の印象をひとことで言うと困ったときの駆け込み寺、大きな背中。一方その破綻なさげな人格の裏でインビにワルを標榜しているようでもあり、おおいに関心をそそられた。当時市場マーケティングの一環として「世代論」をかじっていたせいもあるかもしれない。
そもそも「世代論」という考え方が出てきたのも、ボリューム的に顕著で日本の成長期を体現するようなこの年代があったからではなかろうか。最近3年間に生まれた子供たちの数が団塊の人口の5割を切ってしまうなど少子化のためだろうか、日本の次代をになうはずの若者たちが世代論の中核として語られにくく団塊の世代対象のサイトや雑誌や広告が続々制作されているというアンバランスな様相を見るにつけ、お〜日本よ、彼らとともに「第二の人生」を歩むのか、と、不思議な感慨にふけりもするのである。
で、アイセンシアとのリンクである。荒木さん、森山さん、藤原さん……凄まじい時速のまま疾走中でありそのあらゆるボーダーを超える活躍ぶりが、もうすぐ60代の声を聞く人々に魅力に映るとしたら、それはかなり素敵なことであろう。
正直私などこの3人の前では塵芥にも等しいと思うことがある(せめて太陽光を浴び美しく散乱するスターダストであらんと願うばかりだ)。あまりにも偉大すぎる実物に対峙しているだけに否応なくそう感じるのだろうが、親に申し訳ないので人生に軽重はない、私だって、と添えておく。
先達が輝くのは自らのためならず、あとを歩む者に光の存在の確かさをさししめすことでもある。私はあのときの上司と同じくらいにいま輝いて誰かの目に映っているか。せめて光を背負いこむ覚悟ができているか……どうも「第二の人生」という言葉は団塊世代のためだけのものではないようである。

(07/06/02 本尾緋沙子)



東京のネオンがとてもつつましやかに映った。上海から帰国後都内に戻る道すがらのことだ。といっても、すでに1ヶ月近くが経過してしまったのだが。白夜書房の仕事で 森山大道さんが上海の街を撮影することになり、コーディネータ役の私は、末井昭さん、神蔵美子さん、山門泰彦さんとともに数日を上海で過ごす機会に恵まれた。 上海。窓外に林立するさまざまな形状の高層ビル群。高さにもデザインにもイルミネーションにも、なんら統一性がなく、伝わってくるのはひたすらのアピールと過剰なほどの自己肯定。そしてそれがすごく新鮮。路を歩いていると上海の街のそこここから溢れるようにわき上がってくる欲望をまのあたりに体感する。それは小気味よいほど剥き出しなのに、そのあきらかな目的意識にはどこか直線的なベクトルが秘められている。開発され整備された街並と隣り合い、嘗ての上海の混沌とした路地と互いに折 り重なるようにたたずまう住処が残されている。ぴかぴかに磨き上げられ競い合うようにして林立する建築物のはざまに、生活の匂いと人間の生き様そのものが独特の色 合いとなって塗り込められたままの地域が点在し、昭和を知る日本人には郷愁の思いがよぎる。
嘗てのフランス租界、嘗ての日本租界、嘗ての英国租界……、たくさんの嘗てがそれぞれ個性的な文化を伝え、この街は、経済膨張に五寸釘を打ち込まれた日本人ならではが推し量れる矛盾すら大きなスプーンですくいとり、それらすべてを受容して今、大輪を咲き誇らせている。
今回が二度目の上海行となる森山さんは、すいすいと歩を速め、頻繁に立ち止まりカメラを構える。ビデオカメラでその姿を追うことで、私にも森山さんの視線を吸い付けるものの行方がうっすらと見えてくる。
黄浦河を渡るフェリー、上海市街から1時間ほどの水郷の街などの新しい経験も次々に加えられていった。前回の上海行は、05年の暮れに上海エプサイトで森山さんの個展「ブエノスアイレス」が開催されたため。今回はそのときのご縁でエプソンの方々に たいへんお世話になり、とてもありがたかった。大学で教鞭をとるGuさん、フォトディレクターのHantaoさんはまさにピンスポットへと我々を導いてくれる。そして、さらにありがたみに輪をかけたのは、末井さん、神蔵さん、山門さんとよく知り合えたこと。何年も前からいろいろな場所で顔を合わせる機会も多かったのに、ここに来てこんなに素敵な方々とわかるとは、諸先輩におこがましいが、永く生きているとそれなりにいいことの一つや二つには遭遇できるらしい。もちろん、それもこれも森山さん の存在あったればこそ。 というわけで、上海で出会えたすべてのことに謝々。

(本尾緋沙子 /060628)




 上田義彦という写真家をご存じだろうか。サントリーのウーロン茶や資生堂のUV、最近ではエプソンの企業広告なども撮影しているので、きっとそういった映像は多くの方々の印象に残っていると思う。これらの映像美は上田独自の感性が招きだしたものであり、深遠な洞察と美意識に魅了され彼の仕事を高く評価する人々は数多い。
 上田義彦が写真家として独立し事務所を設立したのが82年、それから20年近い年月が流れるなかで、広告の領域にとどまらない数多くの作品群が生み出され、『Quinault』(アメリカ奥地のネイティヴアメリカン居住地にある森)、『Amagatsu』(舞踏家・天児牛大)、『Flowers』(透明な自然光のもとにたたずむ花)などの写真集に収められてきた。90年代半ばまで主に使用されてきた8x10ポジフィルムがいつしか35ミリネガフィルムに替わり、その後も、たくさんの近作が生みだされていった。これらの作品群を、被写体や撮影方法によりいくつかのシリーズの集積としてとらえることは確かに可能だ。しかし、実のところそれらはすべて、上田義彦という写真家の体内に秘められた、時代の流れと無縁の変わらぬ核心のようなものに貫かれているのである。それをまのあたりにすることができたのが、彼の活動の流れを一望する、東京都写真美術館で今秋開かれた個展の現場だった。
 天井に張り巡らされた白い薄布から淡く柔らかに差し込む照明のもと、約120点の作品が並べられていた。どの作品も、その一瞬でなければならなかった緊張感ではりつめられ、写真家とは現実を介して見えないもの見落としてはならないものを我々につきつけることのできる天賦の才を与えられた何者かであることを切々と語りつづけている。神のみが与え得る瞬間の刹那、そしてそれを自らと重ね合わせ美しいプリントに仕上げていくまでの時間の蓄積。何人かの知人から、すばらしい展覧会だったという感想を聞かされた。これらの賛辞は単に私が初めて上田さんの展覧会のプロデュースをご一緒してからのおよそ10年、作家として見据え続けてきたことを知っていたためではないと思う、そんなお世辞を言う人は私のまわりにはいないから。
 上田さんとの出会いは森の写真だった。展覧会にあわせてそのときの作品が収められた写真集『Quinault』(青幻舎)が復刻され、新刊『ポルトレ』(リトル・モア)『Photographs』(トレヴィル・エディションズ)が刊行された。『ポルトレ』では高精細の印刷技術が用いられジョブパリラックスという再現性の高い竹尾の輸入紙が使われたため、竹尾のショールームで『ポルトレ』の印刷行程を明らかにする展覧会が開かれ、会期中、トークショーが催された。パネラーとして招かれた私はそのときこんな発言をした。「上田さんの新しい作品が生まれるたびにそれらを常に見つづけることのできる距離にあったが、いつも最初に『わからない』という感触を味合う。心に響くが正体のわからないこのざわめきは何なのか、毎回考えさせられながら強く魅かれてきたのだが、今回個展が構成されていく道行きをご一緒してすべてが上田さんという一本の糸で紡がれていたものであったことを確認できたと思います」。デザインを手がけた原研哉さんの「ほんとうに凄いものはいつも『わからない』という感覚をもたらす。じわじわと浸透するように考えさせられてしまう」という主旨の言葉を受けて、写真に間近く従事する仕事に永く携わり体得してきた経験に飲みこまれず、「わからない」という率直そのままの感覚を忘れなかったことに感謝したものだ。
 個展は終了してしまったが、展示されていた写真はこれからも観た人の心のなかに育まれ生き続けていくことだろう。
 写真が好きだ。なぜ? あらためてそう自分に問いかけ始めている自分がいる。

(本尾緋沙子)



 のどに魚の小骨がささってしまったので、ここ2日ほど、食物を嚥下するたびに、扁桃腺炎に似た痛みがぴりりと走る。ご飯をかまずに飲み下す、水を大量に流し込んでみる、と思いつく限りの方法は試したが、頑固にいすわっている。
 だんだんこの状態になれてきて考えるに、骨は嚥下方向に向かって逆方向からのどにささっているのでそのまま固定されてしまったのではないか。もしかしたらこの骨は一生ここにいついて私と共存していくつもりなのではないか。う〜ん、どうもあまりいい気分ではない。街を歩いていると、妙にまわりの人のたたずまいが気にかかる。ひょっとすると、彼らのうちの何パーセントかはのどの骨と共存しているのかもしれない。のどに小骨がささったら飯をかまずに飲み込め、というのが常識化しているくらいだから、その人数は予想以上に多いのではないか、あるいは、20人にひとりくらいはのどに骨がささったまま支障ない日常生活を送っているのではあるまいか。これだけいろいろな種類の人間がいるのだから、結構意外なことでもなさそうである。
 ついに病院を頼ると決め、どの科をたずねればよいか、としばらく逡巡して、耳鼻咽喉科を訪ねた。マジシャンのような老医師によって、ピンセットにはさまれた小骨は無事退散。
 感覚を逆なでするこのようなささいな出来事、ではあるが、自力で解決できないまま、2日間も私を支配した。
 常に視野をひろげ大義名分や大志を抱いて暮らしている人でも、こんな小さなことに惑わされてしまうようなことがあるのだろうか。いや、あるに違いない。
 総理大臣が国会でイラクへの攻撃の判断について詰問を受けたとき、あの場にいてマイクを向けられているのが自分だったらどう答えるか、と考えた。
 いつもそう考えてしまうのだ、大局に身をおく人であれひとりの人間でしかない、はずであるから。つまり、自分をひとつの人間のサンプルに置き換えて、考えている。
 我が身を可愛く思い、いかなる罵声にも雑音にも耳を傾け、長いものに身をまかれ、得か損かにとらわれる。それが人だ。けれど、風の音に耳を澄ませ、木々の緑の香りを愉しむ、そんなささやかなことに幸せをかみしめ、他人の涙に心を乱され、小さな子供の可愛らしさにいやされることができるのも人だ。
 だれだって、自分の責任において決定を積み重ね、踏みしだいて道をつくらなければ前にはゆけないという場面に立たされるはずだ、それも四六時中。そうでなくても、皆、愉しいことと同じくらい、悩ましいことを山ほど抱えているのに、窓をあけると爆弾が降ってくるかもしれず震えてしまう不幸など、想像するだけで嫌だ。しかも自分には状況を変える力もないとしたら。
 私なら、こう答えるだろう、というかいまのところほかに答えが思いつかない。「私はやられたくない、だから、やらない」
 そうこうするうちに、右目の縁が赤くはれてきて、気になってしかたがない。今度は自力を頼らず、すぐに眼科にかけこんだ。
 この繰り返しが人生ってやつなのかな、結構いつもあわただしいな。

(本尾緋沙子)



2002年の暮れ。前触れなく高熱を発して寝込んだ。その数日後大叔父が急逝、微熱ののこる身体で告別式に出席した帰り道ふと運転の手を休めて見ると携帯電話に伝言が残っていた。
「本尾さん、ハーブのことはもうご存じでしょうか。メモリアルの予定がわかったらまた連絡しますので」オフィスラムの原田さんからのメッセージだった。「まさか」血の気が引いた。

ハーブ・リッツはロサンジェルスに住むフォトグラファーで、89年の日本での初個展からはじまり、4回の展覧会がパルコで開催された。
交渉ではとにかく絶対に妥協しないので、サラリーマンの立場では肝を冷やした。(当時私はパルコの社員だった)最初の来日ではリチャード・ギアを同行しようとし、2回目にはマドンナをパルコに連れてきた。
整った小さな顔、筋肉質の細みの身体。撮影を行うときには我を忘れるし、納得できないときには苛立ちを隠さない。
それでも、絶対に忘れなかった細かい気配りが周囲の人々の心に最後にはいつもあたたかな固まりを残した。
80年代末、たった1枚の作品が認められたことで写真家としてのサクセスストーリィを歩み出したハーブはあっというまにスターダムに駆け上がり、学生時代の親友リチャード・ギアと同様のセレブリティとなった。数多くの著名人のポートレートを撮影し、彼らの期待に十分に答えた。
そういった華やかな要素は日本でもいいほうに働いた。来日するたびに彼は最上の待遇を求めパルコがそれに答えたのは、ふさわしい確かな実績が約束されていたからだ。当時写真展としては画期的な15000人の動員、作品も20点近くが売れて、費やしたコストのほとんどが回収できた。それだけでなくハーブの周辺は、なぜかドラマティックでどこか芝居がかっていたから、非日常的な魅力がいっぱいだった。
しかし、それらの事実もこんなには輝いて思い出せなかっただろう、もしも彼が表面に現れていない真実を見いだそうとしそれを信じ抜こうとする人でなかったなら。
私はただハーブと仕事をしただけだ、淡々と。でも今考えると、共有できる時間がすくないことをわかっていたから、最上の思い出だけを残すために、懸命だったような気もするのだ。

ハーブは撮影のためにでかけた砂漠から戻ったあと、体調の不調を訴えて病院に行き、そのまま肺炎で逝ってしまったと聞いた。2002年のクリスマスの日に。
ロスと東京、私がハーブと過ごした時間は出会ってからの十数年間のなかの正味何十日間かに過ぎない。その意味では肉体の存在の有無などはなから問題ではなかったのかもしれない。
にもかかわらず、私は煩悶しなければならなかった。なぜハーブでなければいけなかったのだろう。(なぜ私は生かされているのだろう)

約2か月が過ぎた今、ようやくハーブは此岸にはいないのかもしれない、と静かに思えるようになった。1月のメモリアルにはどうしても出席する気持ちになれなかったが、今ならハーブの身体を焼いた灰が撒かれたというマリブの海を見つめることができそうな気がしている。私の心のなかには友人のための空かずの間が準備されたから。
友情とは勝手で一方的な思い込みだ。裏切られるという言葉はふさわしくない。自分の思いの責任は自分でとりたい。私が大切な人を守るためにじゅうぶんな力がほしいと思うのはそのためだ。
強くなりたい。
かつてなかったほどに今はそう願っている。


(本尾緋沙子)



荒木経惟さんと藤原新也さんに、独自のポリシーを持つアーティスト・オフィシャルサイトの先鞭をつけていただき、今春、新しいかたちのアート・プロジェクト、アイセンシアがスタートを切ってから、あっというまに半年近くが過ぎました。多くの方々から、「いつですか?」とお問い合せを受けつづけていた森山大道さんのホームページhttp://www.moriyamadaido.com/ も、ようやく起ち上がります。
今後に向けて「これもあれもやらねば」の具体的な課題はいくつも目の前に横たわっているものの、ずっしりとした重責に比例する、熱い手ごたえを日々実感しています。たとえば、作家への数多くのメールを毎日全国各地から受信します。いえ、ほんとうは、まだEnglishヴァ−ジョンのアップ手前であるにもかかわらず、地球各都市から。お二人とも受信したメールの一通一通に目を通されます(このことを心配なさる方がとても多いんですね、実際のところ本人は読んでおられるのだろうか、と)。

荒木さん。
メールのお返事はなさいませんが、荒木さんを巡って起こる出来事はバラエティに富み、ネット世界と現実世界を見事に交錯させます。みずから出版された『世紀末ノ写真』『新世紀ノ写真』は、オフィシャルサイトでしか販売しておりませんが、サイン会にはこれらのご本を大切そうに抱えて並んでくださる方がいらっしゃる。また、「ぜひ荒木さんに撮影を」というファンの声も数多く、それでは、近い将来、期待にお答えできるような企画を考えようや、など、柔軟・骨太、アイセンシアの基本精神を象徴するようなミーティングが行われます。

藤原さん。
御存知の方は御存知のとおりです。試しにひとつ、勇気を奮ってみてはいかがでしょうか。

アイセンシアは、インターネットの機能を存分に活かし、日々、東京と大阪とでやりとりを続けています。スタッフの平均睡眠時間は、四捨五入すれば0時間ですが、いまどき珍しくもありませんね。先日、あるアートスクールでアイセンシアのことを学生さんたちにお話する機会があり、耳の痛い質問を受けました。「今後のビジネス構想についてお聞きしたい」。うーむ。この御時世ですから。ふと、ある出版ドキュメンタリーのなかで、「適性としてもっとも必要なものは?」と問われたある編集者が、こう答えていたことが脳裏をよぎりました。「『愛』です」。ここで「アイセンシアのアイは愛でもあるのです」などと答えて失笑を買うような事態は回避いたしましたが。
アイセンシアeyesenciaという言葉は、藤原さんの作品集『バリの雫』の欧文タイトル“essencia of Bali”に触発されて生まれ、荒木さんに邦題を与えられました。「『心眼』と訳しなさい、真実は第3の眼で見るものなんだよ」インターネットという限界のない世界で待ち受けているものを見る・・・尽きぬ好奇心がすべての源泉であることは間違いないようです。


(本尾緋沙子)